古橋廣之進 【町の偉人たち】
 1928年雄踏町生まれ。「フジヤマのトビウオ」と呼ばれた水泳選手。日本史に名を残す活躍をしました。その業績は、ここでわざわざ説明することもないと思いますが、一応説明しておきます。

 雄踏出身の彼は、身体上のハンデを負いながらも、独特の泳法で世界記録を塗り替えること実に33回。太平洋戦争に敗れ、うちひしがれていた日本人に希望の光をあてたその業績は、単なる水泳選手というだけでは語りつくせないものがあります。氏が少年時代に泳いだプール跡。中央奥に顕彰碑(雄踏町山崎)

 彼が活躍しだした当初、日本はまだ工業国としての評価を受けておらず、日本で古橋選手が世界記録を出したといっても「日本の競技会で使っている時計など正確でないにきまっている」「サツマイモしか食べ物がないような敗戦国でそんな記録が出るはずがない」などと陰口をたたかれ、世界からなかなか認めてもらうことができませんでした。

ところが、古橋選手は海外遠征したアメリカでも、当時としては信じられないような記録で圧勝。実力を認めると誰であろうと賞賛するのがアメリカの国民性ということもあり、彼の名は世界に知れることになりました。このとき、アメリカのある新聞社が彼を「フライング・フィッシュ」(トビウオ)と名づけました。

 全盛期にオリンピックに出場できなかったこともあり、メダルを獲得することはできませんでしたが、後に古橋氏は日本オリンピック協会(JOC)の会長(〜1999年)としてスポーツ振興にも多大な功績を残しており、現在でもさまざまな形でスポーツの振興に尽力されています。

 1994年(平成6年)、雄踏町に名誉町民の制度ができると同時にはじめての名誉町民に推挙され、山崎にある、彼が子供の頃泳いだプール跡地には、「努力・我慢・克巳」と刻まれた顕彰碑が建てられています。

顕彰碑には以下の文章が刻まれています。

「山崎プールは、昭和九年の夏に地元の旧家江馬九右衛門氏が、50米プールを作り雄踏小学校へ寄贈した。このプールからは、数多くの精鋭たちが育ち水泳王国を築いていった。そして昭和三十年の秋にはその役目を終えたが古橋少年もこのプール育ちの一員であった。
 この碑は、これらの由緒に基づき、当時からのスタンドを保存するとともに、郷土の生んだスーパーヒーローの実績をとわに刻むものである。
 古橋廣之進は、昭和三年にこのプール北東150米の地に生まれた。昭和四年時からここで泳ぎ始め、六年の夏には県大会の100・200米自由形で日本学童新記録をマークし「豆魚雷」の異名をとった。
 浜松二中(西校)から日本大学に進み、昭和二十二年八月八日に400米自由形で四分三十八秒四の世界新記録をマーク以降三十三回にわたり世界新記録を塗り替えた。
 昭和二十四年の全米男子屋外選手権に出場400で四分三十三秒三、1500で十八分十九秒0の当時としては驚異的な大記録で優勝、世界中をあっといわせた。「フジヤマのトビウオ」のニックネームがつけられ、敗戦でうちひしがれていた日本人に大きな勇気と希望をもたらした。
 昭和五十年・日本大学教授、昭和五十八年紫綬褒章受章、昭和六十年・日本水泳連盟会長、平成二年・日本オリンピック委員会会長、平成五年・文化功労者、平成六年・雄踏町名誉町民

平成六年二月二十一日建立 雄踏町・雄踏町教育委員会」



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