中村音作 【雄踏の偉人たち】
 雄踏町は南側と西側には浜名湖、北側には田畑や山があり、外部との交通があまり便利な土地ではありません。特に、国道一号線や東海道本線舞阪駅に行くためには、川を渡らなければいけません。(湖南高校と雄踏町役場とのあいだ)。この、雄踏町の宇布見と馬郡(舞阪)のあいだには、現在「宇布見橋」という橋がかけられています。いまでこそ、この橋はたいした長さではないですが、昔は両岸がまだ埋め立てされておらず、現在とは比べ物にならないほど間隔が長く、往来は大変に不便でした。実際、明治14年に雄踏と舞阪を結んだ最初の「音作橋」ができるまで、雄踏の村民は渡し舟でしか行き来をする手段がありませんでした。雨や風の強い日は渡し舟が出ず、村人は大変不便な思いをしていました。

 天保9年(1838年)、領家に生まれた音作は、男らしい子で、子供のころから、船の行き来で村民が不便な思いをしていることを理解し、橋づくりをしたいと考えていたといわれています。そして12歳のときには、彼は中村彦十という大農家の養子になっています。

 音作は村役場、村の有力者に、町の発展のために橋が必要なことをなんども説明にまわりました。しかし、橋の建設には莫大な金がかかるため、だれも相談にのってくれませんでした。彼はすでに40歳になっていました。そこで音作は県知事にお願いするとともに自分の全財産をなげうって橋づくりを始めました。彼が44歳のとき、ついに初代「音作橋」が完成します。長さは1080m、幅1.8m。当時としては大金の1080円がかかりました。

 ところがこの橋、台風で完成後すぐに流されてしまいました。音作は、木材をかきあつめて修理を繰り返しましたが、協力者が次第にいなくなり、いよいよ資金がなくなってどうにもならなくなってしまいました。

 結局、なんとしてでも橋を維持していきたいという音作の願いを引き継いで、明治21年、舞阪の川崎屋が橋の管理をすることになりました。そして、翌明治22年に東海道線が開通すると同時に、音作橋の舞阪側正面に「舞阪駅」ができました。鉄道の駅が出来ると、町の発展のためには橋が非常に重要だということがよく理解されるようになり、橋会社がつくられました。こうして明治33年、音作橋の名前は「宇布見橋」となり、現在に至っています。



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